きっと発展とは、心の活動を促すものが、外部からの情報や刺激でなく、自己の内部から生まれるようになった時に起こる。
そして、自身の心の活動を促すものというのは、それが本物であるとすれば、きっと万人の心の活動を促すものに等しい。
今朝のヨーガで感じた、小さなこと。
緑も光合成をする。
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きっと発展とは、心の活動を促すものが、外部からの情報や刺激でなく、自己の内部から生まれるようになった時に起こる。
そして、自身の心の活動を促すものというのは、それが本物であるとすれば、きっと万人の心の活動を促すものに等しい。
今朝のヨーガで感じた、小さなこと。
緑も光合成をする。
洗濯物が乾きにくいからと浴室乾燥機で乾かすのと、外干しして太陽の力を借りて乾かすことは、「洗濯物を乾かす」という点では同じであっても、本質は全く違う。
浴室乾燥機で乾かしたタオルに、太陽の匂いはないし、太陽による殺菌作用はない。あるのは、乾き、もしくは確実に乾くということ。あとは、自然エネルギーの消費がある。
外干しして乾かしたタオルには、太陽の匂いがあるし、どうにか乾くよう工夫する行為と知恵があるし(場所を入れ替えたり)、干しているときに感じる冬の空気の冷たさや音という季節の経験がある。また、場合によっては夜になっても乾いていなくって、良くも悪くも学びがある。
同じように、食べるということは、物を口に入れてお腹を満たすことではないし、サプリメントで栄養を補給することでもない。
行為の本質とは、そこにあるのではないかな、と思う。
ひとつひとつ、行為の本質を考えたい。それは、生きる、つまり五感を使って経験するということだと思う。便利さや効率でなくて、本質をともなった選択をしていくことが、人生の質を作っていくのかなと思う。時間や行いばかりを節約していくと、確実にその質は失われていく。
「乾かす」とか「食べる」ということを、言葉の通り一部だけ取り出すのは危ない。ひとつの栄養素だけを取り出して、それが体にいい、悪いというのと似た危なさがあると思う。行いも食べ物も、一部で成り立っていないし、他のものとのかかわり合いで成り立っている。一部だけ取り出した場合一見効率が悪かったりマイナスの要素があっても、それは全体的に見たときには、それが自然の中で生まれたものである限り、本質を伴った行為であるはずだし、ひとつの小宇宙として完成されている。
洗濯物がなかなか乾かない日々が続く中、今日も前向きな気持ちで寒さに耐え、ベランダに立つために。
立春の満月。
月を見ていても、体に触れていても、香りに触れていても、居場所も、今という瞬間も、そして自分自身の心も、本物だと思えるもに変わらないものは何もない。全て、輪という最も美しい形を描きながら、変わっていく。月の巡回、女性らしいしなやかな身体、香りの変化から思い出への昇華、地球というひとつの球体の村、落ち着きのある時間、愛する心。輪、円、といった形は、終わりのない変化を可能にする。
今日の月は、不思議な色。この色も、これまでの変化の結果であり、変化するプロセスそのものである。
満月の日は静かにしたほうがいいというので、夜は走ることもヨーガもしないでそんなことを考えて。
もしかして、あの黄色は。遠くからでも、その色と姿に気がついた。
もう、この花の季節。ミモザ。春が来る前の、一番大好きな花。
それは、午後の陽だまりのように優しく、可愛らしい。どこか恥ずかしそうで控えめで。くすぐったさがあって。
手も足もかじかんで感覚がなくて「ああもう冬はだめ」と家路に着くと、最近はこの花がいる。ほっとして、何かがほぐれてゆく。小さいころ、帰ると必ず家にいてくれた母を思い出す。そういう母に、なりたいなと思う。
優しい光を感じる時間、場所、写真、絵、香り、そして音楽に惹かれます。そして、人にも。
光を感じる香り。ジャスミンが、光と風と戯れる様子は美しいと思う。太陽を一身に浴びて上を向く花と、その上を舞う蝶は艶やかだと思う。靡くショールの向こう側の白い光が、いいなと思う。
La Haie Fleurie (花の生垣) by L'Artisan Parfumeur *discontinued
La Chasse aux Papillons (ちょうちょをつかまえて)by L'Artisan Parfumeur
Voile Blanche(白いヴェール)by IL PROFVMO
Un Jardin sur Toit (屋根の上の庭)by Hermès
--- 春が近づくと、棚から取り出す香りたち。
光を感じる音楽。雪解けの後光に出会う新芽の柔らかい表情や、万華鏡のような木漏れ日の様子を感じます。
Spazieren (散歩)
https://itunes.apple.com/jp/album/spazieren/id474674231
Wolke (雲)
https://itunes.apple.com/jp/album/wolke-vier/id450751441?i=450751445
Both albums by Henning Schmiedt
---毎年この時期、一緒に春を待つ音楽たち。Henningの奏でる音はいつもとても眩しい。
雪のあとの今日は、光が凛としていた。吹雪の後は、必ず光が射す。それを知っているから、じっと耐える。
春まで、また一歩近づいた。
あっ、この感じ。懐かしい、この感じ。
今朝の空気は、確かに春の気配を纏っていました。嬉しくなって、春の思い出が詰まったクラリセージの香水をつけました。
懐かしいという気持ちは、特殊な幸福感で胸をいっぱいにする。いつかの悲しさもちょっとだけ混じっているけど、心を宥めてくれる。
懐かしさとは、実はどういう気持ちだろう。
多分、懐かしさがそういった幸せな感覚をもたらしているのではなく、懐かしめるものがあるという事実がそうさせてくれているのかな。
先生が作ってきてくれたというチャーイは、煮出したスパイスの味が優しく、とても美味しかった。プラクティスの後、みんなでしゃがんで囲む温かいチャーイ。葉山から重いポットを持ってきてくれたのかと思うと、それだけでありがたく。
今日もたくさんの、かけがえのないものをいただいた。その一つに、手放すことがあった。
美しさとは不在のこと、最近考えていたそんな事と重なった。美しさとは、見つけるもので作るものではない。どうやって見つけるのだろう、それは自分というエゴをすてて、全ての人の心に既にある「いのち(真の創造性)という力、もしかしたらそれは神さまというのかもしれないけれど、その力が自由に働くスペースを自らに与えることで可能になるのではないだろうか。写真でも、文章でも、何かよいものが産まれる瞬間には、私は完全に自分を手放している気がする。
アサナのプラクティスの際に、格好良くやろうとか、呼吸に自分をコントロールされたりした時に、そこに美しさはない。だから手放す。ヨーガとは手放すことの訓練だと、その先生は今日も教えてくれた。その先生のアサナはとても美しく、心から響いてくるような穏やかな声が今日もまだ耳に残っています。
*写真はラジャスターンで飲んだチャーイ
いつの日か「自分の体は自分のものであって自分のものではない」という言葉を自分なりに解釈ができるようになってからは、より心地いいものを食べたいと思うようになり、食まわりのことが(買い物とか料理とか)1日の中でますます重要な時間になってきた。
食べるとはいのちの交換作業。だから、自分の体は自分のものであって自分のものではない。だから同じように、他人は他人のものであり、他人のものではない。誰もなにも、もっていない。その代わりに共有している。ひとつである。
Don't be a philosopher. Be a practitioner.
その哲学を説く人になるな、ただ黙々と実践する人になれ。
日常も。仕事も。ヨーガも。
今年は、去年より1時間早い6時に起きることにした。ただ起きるだけ、それだけの簡単なこと。
理由はいらない、実践のみ。そのほかのことも、ただ実践のみ。
帰り道、もう今日はお金さんはしまっておこうと思う。それでも改札横のいつもの花屋さんに、大好きなあの赤い花がある。450円。
450円で明日からの一週間幸せになるなら、いいよね。
ああ、またいつものパターン。
けじめがないな。
でもこの気持ちが無くなったとき、それはちょっと寂しいから、いいよね。
生まれた時は真っ新で、そこから色々な環境や関わり合い、そして情報の中で私がつくられていく。そこで、コントロールがないと、それは絵にならず、何色もの絵の具が秩序無く塗られた絵になってしまって。
人は様々な色の絵の具を受け取りながら、それを使って「私」という絵を最も忠実に描けた時、一番美しくなれるのでしょうか。
そして、自分に最も近づいたときが、他人と自分、地球/自然と自分を、本当の意味で一つのものとしてとらえることが出来るとき。自分に近づくほど、自然体になるほど、人として生きる上で当たり前の感覚が鋭くなっていく。痛みも自分のものとして捉えられるようになる。だからひとつなんだと。他人は自分。そう思えたとき、私は多分、美しい人になれる。
日々、人と関わりをもらって仕事をさせてもらい、そのなかで自分の色んなことを知らせてもらっているのは、そういうことなんだと思います。他の人と関わるということは、自分と関わるということ。それは自分に近づくということ。美しさに近づいていくということ。
前に進もうとするからこそ、人に出会う。時に風と向かい合う。何が来ようとも抗わず、流れのままに受け止め、必要なければ手放す。
「無理はしなくていい」という事と「常に自らに挑戦を課して努力し続ける」という事を同時に行うことで、人は健全な形で成長出来るということを、今年は日々の生活の中で学びました。一見相反する2つであっても、それはバランスを取るために必要な表裏一体のもので、同時に実践することが大事でした。
毎日のヨガのプラクティスのなかで、特にそれを感じます。無理をしては、けがをする。でも昨日の自分より1mmであっても、本当の自分の姿に近づけるように意識を向ける。身体を訓練する。それを繰り返し繰り返し続けていると、ある日、自分の中の中心に触れ、天と地に心地よく引っ張られるようにして、ふわっと身体が浮いた。
昔は、息切れするまで行うことが努力することだと思っていたけれど、最近やっと、そうじゃない方法もあるということを身体を通して知りました。でも、まだまだです。
日本の外に出て行けば行く程、日本という国に近くなる気がします(地球は丸い、ということですね。)
中でも日本の神道の考え方に出会ったとき、これからも日本人の精神を大事にしたいと思いました。「仁徳」という言葉が大好きです。簡単に言うと、神様を喜ばせることで自分を幸せにする、という考え方です。つまり、まず他人ありき、そこから自分が幸せになるということ。
近年、書店に行けば「◯◯になる方法」や「願いを叶える方法」といった幸せを求めた本が沢山ありますが(自分もパラパラと見たりします)、そういった本の中心は、いつも「自分」にある気がします。他人を心から愛するためにも自己愛はとても大切。けれども「仁徳」の考え方さえあれば、自己啓発ばかりにとらわれずとてもシンプルに生きていけると思うのは私だけでしょうか。そしてそれは、もっと雅やかで颯爽としている気がします(きっと、そこには何かへの執着がないから。)
けれど、誰の日常のなかにも気がつけば沢山の仁徳が溢れているというのは事実。プレゼントも、相手を喜ばせたくて用意しているつもりでも、結局自分が、選ぶ時間や渡すまでのプロセスを一番楽しんでいる。電車の席を譲っても、実は自分が気持ちよくなっている。パートナーのためにスキンケアをするようで、ツヤツヤになっていく肌を自分が一番喜んでいる。
仁徳ってやっぱり好きな言葉だな、と思います。
オーガニックとは、何でしょう。今や「いいもの」の代名詞のようになったこの「オーガニック」という言葉は、日本語になおしてみると、その意味がもっと分かる気がします。オーガニック、つまり有機とは、そこに生命または生命力が宿っているということです。そうなると「生命」って何なんだろう、と根源的な疑問に直面するのですが。
この一年、自分にとってとても大切な「食」の場所のPRコミュニケーションに関わり、キッチンから畑、そして仕入れまで沢山の食の現場に立ち、取材をしてきました。その中で、有機そして生命の意味、というクエスチョンに対し、少しではあるものの自分なりの理解と回答を持ち始めた気がします。
生命とは、つまり創造力であると思う。そして創造力とは循環のことである。それが私の中にある、今最も確信がもてるこたえです。
人々の心を満たす素晴らしい料理をつくる人々、そしてその素材を育てる農家の人々、彼らにあるのは知識や経験以上に創造力でした。有機栽培や有機食材を使って何かをつくろう、というのはそのあとにくることで、素晴らしい創造力をもってなにかに取り組むと、自ずとサスティナブルな方法を取るようになるのではないでしょうか。ソースか一杯から、ピタ一枚から、自分たちでつくろうよ。その美しい心を養うのは創造に対する情熱であり、その情熱を最高の形で表現するためには、本当によい食材を使うしか選択肢がないのです。「それってオーガニックですか」そう質問する自分を、いつの日かなんて薄っぺらいインタビュアーなのかと感じ始め、恥ずかしくなったこともありました。
そしてその創造力から生まれた食べものというのは、本物の栄養となってきちんと身体に吸収されます。優しい心を育てます。その心がこんどは誰かに何かをしてあげたい、誰かの幸せを創造したい、という感情に変わるのです。そしてそこから、新たな創造が生まれると思うのです。
よい食材、素材も循環の中にあり、命の全体計画のなかでエンドレスに生まれては土に帰り、水となり、空気となり、また生まれる。
香りの仕事に関わり続け、思えば香りもそうでした。本当に心を動かす香水は、肌の上に居座ること無くいつしか消えていくのです。消えていくということは無くなるいうことではなく、わたしの一部になるということです。思い出の一部になる、お金では買えない心を動かす感動となる、そしてそのわたしが未来を創造していく。
生命とはその繰り返しではないかと思います。プラスチックは、残念ながら循環の中には入ることはできないように。
オーガニックに生きるとは、創造力をもって生きること。循環の中に生きること。一部のための全体でなく、全体のための一部として生きること。まだまだ知らないことの方が多い、けれどもこれらが今私自身が理解している生命に対する解釈です。だから生命を授けられた私は、来年も創造を絶やさず生きたいと思います。無機ではなく、有機であるからこそ。
来年は30歳になる年。100歳まで生きるつもりなので、その約三分の一を生きたことになります。生命にたいする考えが、残された三分の二の人生の中で、どのように変わっていくのか。楽しみです。
*今年見せてもらったたくさんのクリエイティブな「食の風景」。相棒カメラと脳内メモをもって取材し綴った記録、シェアできましたら幸いです。
L'ATELIER EAT GOOD (アトリエ イートグッド)www.epietriz.com
- ブログ (日々更新)http://www.epietriz.com/thought-on-food/
- 農家さんを訪ねて http://www.epietriz.com/tsuda-farm-/
- ソースのふる里を訪ねて http://www.epietriz.com/mellow-habanero/
PRというタイトルを背負って仕事をしていた時、私にとって決して心地が良いとは言えない何かがあった。でもそれが何なのか分からなかった。
ある時からヨガを始め、今まで以上に様々な思考の旅を経験するようになった。その中で「本当の優しさ」について考えることが増え、沢山のヨガ文献にも目を通した。そして最近、「本当の優しさ」とは見返りや期待を持たずに愛を与え続ける事ではないかと思い始めた。
そう気がついたとき、ふっと、あの「心地よさに反する何か」が何なのか、少しわかった。
人に何かを伝えるときに、雑誌に載せてもらうことやSNSに投稿してもらうことを期待しなければいけなかったその気持ち、それが評価の1つになると思っていたその気持ちが、心に反していたのだと。
良いものを伝えるときは、純粋に目の前に座るその人に「私が経験したこの感動を同じく経験してほしい」と思う、分かち合いの心で向き合いたい。
ヨガは、仕事であっても何であっても「全ての基本は優しさである」と教えてくれた。
雑誌掲載やSNSに投稿は何でもいい、まずは目の前にいる人に幸せな瞬間を味わってほしい。本当に感動してもらえたら、人間は自然とまたそれを誰かに伝えたくなるはずだから。一般に言うPR戦略に反しているかもしれないけれど、わたしが持つ戦略とは多分これしかない。
ある時からPRのタイトルは箱にしまい、タイトルが必要なときは「Communicator (コミュニケーター)」と書くようになった。
"For me, I am driven by two main philosophies: know more today about the world than I knew yesterday and lessening the suffering of others. You'd be surprised how far that gets you." - Neil deGrasse Tyson
今日は「昨日の自分は何も知らなかったなあ」と思いたい。明日は今日の自分が「何も分かっていなかった」と恥ずかしく思いたい。それを毎日繰り返すこと。
朝。
自分がコップ一杯の水を飲む前に、花の水を替えようと思う私がいるだろうか。
そうでない朝は、少しはっとする。
そんな朝は、花もどこか元気がない。
言葉によって思考の幅と可能性を広げていく。思考が広がれば人との関わりも広がる。自然のささやきを書き留めることも出来る。
そうか、ボキャブラリーとは人生を描くためのカラーパレットだ。