時を生ける

 

「もう春ですね」というのが出会った人との挨拶代わりになっていたのに、あっという間に桜は葉桜へと成長し、自宅の扉の目の前を覆うジャスミンのカーテンは、ピンクのアイシャドウチップのような蕾を日に日に膨らませている。この部屋に引っ越してから、5月の風はジャスミンの香りに染まる。大好きな新緑の季節がやってくる。

とはいえ、その部屋のある東京を引っ越す。だからこの4月は会いたい人に時間をもらって会っている。写真を撮らせてもらうこともする。

今日も一人お会いした際に「時を生ける」という言葉を教えてもらった。「時をける」とはどういうことだろうか。それはまさに、唯一存在する「今」というこの瞬間を最も美しく生きることだと私は解釈する。本来、わたしたちは時を活け続けるべきなのだと思う。そして人生の最後の最後に、ひとつの作品集としてその生きた証を発行する。素晴らしい作品集は、読み継がれていく。

その晩、ヨーガのクラスに出た。緊張と弛緩。その相反する2つが同時に存在する中で生きること、それが「時をける」ということなのではないか、とアーサナに取り組む中で思った。ただ我武者羅に今を生きても、それは時をけるということではない。自然、調和、美、意識、知性、そして心を伴って、今に向き合う。そして生きている以上、そこから未来へ繋がる創造を行わなけばいけない。それが「時をける」という生き方だと思う。他の命をいただき、自分の身とし、排泄することを繰り返すだけではいけない。

当たり前だけど、花を活けることと、フラワーアレンジメントは全く違う。どちらも素晴らしく、どちらもあっていいと思う。これから、生花をもっと真面目に勉強してみたい。きっとそれは自分をけることを学ぶ生涯旅になるだろう。上京した年に古本屋で出会った、楠目ちづさんの「暮らしの中の茶花(矢来書院, 1976)」を何度も読んでは、そんな思いを強くする。 

今日は、止まない雨がジャスミンの蕾を活けていた。

 

*「生ける・活ける」こういう言葉は外国語にないので、今日のタイトルは日本語で。