生かされて

 
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水がないところに生命は存在しませんが、日々、そして子供を持って改めて、水というものの尊さと奇跡を感じています。そして、その水が今は幸運にも、こんなに雨が少ないカリフォルニアであっても、蛇口をひねればいつでも出てくるという奇跡とありがたさ。

赤ちゃんを綺麗に保ってあげたい、と思えばもうそれは水が全てで。お風呂に入れてあげることから、日々の布おむつの洗濯、汚れた洋服の洗濯。水に触れるたび、なんてありがたいんだろうと思うと同時に、いつも少し胸が痛むのはどうしてでしょうか。なんだろう、この罪悪感の様な気持ち。それともこれは、今、水が感じている痛みでしょうか。

十分に水を得ることのできない場所で生きる人々の、お母さんたちの、気持ちを想像してみる。綺麗にしてやりたくても、綺麗にしてやれない、母親としての辛さ、痛み。同じ母として、その痛みを、どんなに遠く離れていても、少しでも癒してあげられないでしょうか。今自分にできることは、日々水を大切にすること、ドネーション・・これだけでしょうか。

水に限らず、いのちを育てるということに関わり、改めて全てが奇跡であり、ありがたく、当たり前ということは一つもないことに気がつきます。

私たちは「生かされている」

いのちを世に送り出す出産と言う場面でも、私は、最初から最後まで人は人に支えられ生きているのだということを何よりも学んだけれども、その私たち人間を支え、生かしてくれるのは、大いなる自然に他ならない。

 

Dream 夢

 
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幼い時から夢こそ私の原動力、そして生きる力だったように思います。夢について考えて、どうしたらそうなれるか考えたりするときには、身体中が熱くなって、心の中に何かが湧き上がってくるのを感じて。

夢にはいろんな夢があるけれど、押入れや裏山の中に秘密基地を作った時やサンタクロースの到着を待ちながらベッドに入った時の夢見る心も、絵描きになること、ミュージカルの舞台に立つこと、そして盲導犬訓練士になることを夢見たことも、どれも全て私の子供時代を創造とわくわくする気持ちで満たしてくれました。中学生の頃は、体育の時間にはいつも空を眺めては遠くに繋がる海の向こうを想像し、興奮と夢を膨らませ、高校に入ったらダンサーになる夢とともに初めてその海を渡りました。それからも、いつも夢は私の人生を描くための筆そのものでした。社会人になり、香りの仕事に就いた時も、香水を通して描きたいものは、官能的なものよりも夢と創造でした。

大人になった今、良いアイディアが湧き上がってパズルのように繋がっていくとき、子供の時夢を考えていた時に感じたのと同じ様に体中に熱いものがこみ上げます。それはきっと、今の私は夢は叶えるもの・叶えられるものだとわかっているから、創造的な時間を過ごすことは幼い頃のように夢を紡ぐことと同じだからでしょうか。

今、愛情以外に我が子に最も与えてやりたいもの。それもやはり、夢。それがきっと想像し、創造する心につながると信じています。そして想像し創造することは、相手を思い理解しようと努め、何が出来るか行動をすることと同じだと、信じています。

娘を持って半年、私にも新たな夢ができました。娘と一緒にできるビジネスまたはプロジェクトを創り仕事にすること。小さな娘とこれから、隣同士一緒に夢を分かち合っていくのが今の私の夢です。

 

To Be Selfless

 
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呼ばれた時に、「ちょっと待ってね」と言わずに、今どうしてもやってしまいたい目の前のことを置いて、どれだけすぐに駆けつけてあげられるか。抱き上げてあげられるか。赤ちゃんと向き合うことは、selfless(セルフレス)であることの最大のプラクティス。そうなれる時もあればなれない時もある。けれどもその中で、自分を見つめ直し、反省し、今という瞬間に本当に大切なことを思い出す。

 

A New Life

 
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赤ちゃんとの暮らしが始まってもう直ぐ3ヶ月、気がつけば冬時間が始まり、カリフォルニアの市場には冬のシトラスが並ぶ季節になっていました。

最近は出産前に買い揃えていた赤ちゃんの服がもうすっかり小さくなり、日々の成長を喜ぶと同時に、既に小さくなったその服を見ては少し寂しくなったり。2度と戻らないこの瞬間瞬間を大切にしよう、そう思いながら日々の授乳をしたり、オムツを替えたり、お散歩に出かけています。この頃は表情がとても豊かになり、おしゃべりも盛ん。お話しするとキャッキャッと沢山の笑顔を見せてくれるようになりました。

生まれてきてくれてからこの3ヶ月の間に、赤ちゃんの言葉もわかるようになりました。この泣き方はオムツ、この泣き方はゲップかな、眠たいんだね、ただ抱っこしてほしいんだなあ・・・と。そんな赤ちゃんとの日々のコミュニケーションの中で感じること、それは人間の持つシンプルで根源的な望み。つまり人は誰かに役に立ちたい、愛する人を幸せにしてあげたいだけなのだ、ということ。

赤ちゃんが伝えてくれる小さな望みを一つ一つ叶えてあげること。それが将来、小さなこの子が人を信じる力になるのだと思うと、日々の小さなお世話の中にある大きな意味を知るのです。

信じる、についてというと、私がどんなボサボサの髪でも、ひどい格好でも、赤ちゃんは無条件に母親の私を信じてくれますね。どうしても手が空かなくて少し泣かせてしまったときも、側に行って「ごめんね」と抱きしめると「お母さん」と言わんばかりの表情で胸に顔をうずめてくる。そんな時は、その無条件の信頼に対して私がこの子に与えてやれるのは無条件の愛なんだと、信頼と愛の関係を学びます。

赤ちゃんはエネルギーに敏感ですね。日々、できる限り自然の中で感覚を刺激してやりたいと思い一緒に出かけますが、緑の中で伸び伸びさせてやると、クークーと盛んにおしゃべりを始めたり、手を空に向かって伸ばそうとする。風が吹くと、何かを考えているかのように聡明な表情を見せる。嬉しいんだなあ、気持ちいいんだなあ、とわかります。だからこそ、できるだけそんな中で毎日を過ごさせてやりたいと思います。プラスチックや派手な色のおもちゃで赤ちゃんを囲ってしまうよりも、自然の色や音、そしてぬくもりで日々を満たしてあげたい、そう思います。

日々寝食忘れて、情熱のままに働いた20代。そして、母となった30代。「お母さん」というタイトルを得たことを今までのどんな仕事よりも一番誇りに思い、今はただ、私の母がそうしてくれたように、この子が振り向いた時には必ずそこに笑顔でいるお母さんになれますように。そんな思いです。

 

 

まだ始まったばかりの新しい日々の最中に。

 

 

 

 

 

A Little Thing

 
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おいしいおっぱいに抱っこ

オムツをかえてほしいよ

お腹がいたいよゲップがしたいよ

かわいいと言ってほしいな

そばにいてほしいな

泣いたら気づいてほしいな

ねえお母さん

 

赤ちゃんが私にしてほしいことはとてもシンプル。

何でもない、とっても当たり前のこと。 

無条件に私を信じては伝えてくれる

その小さな望みを

ひとつずつひとつずつ叶えてあげるのが今の私の役目で、

それができたとき、

私はとても幸せ。

 

わんわんしくしく泣かせてしまったとき、

何をしてもそれを助けてやれないとき、

無力な自分に何とも悲しくなるけれど、

きっとそうやって、

私と赤ちゃんは少しずつ一緒に強く大きくなっていく。

 

ありがとう

 
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その日、神様が「もう行きなさい」といったので、

赤ちゃんはあったかくて心地のよいおなかの中から、

狭くて暗い道を通ることを選び、

頑張って私たちの元へきてくれた。

 

水の中に、その小さな頭が見えた時、

その子がいのちを振り絞っているのがわかった。

 

私だけじゃない、

たくさんの人の支えを受けて、

生まれてきてくれたその小さな女の子を胸に抱きしめたら、

今まで一緒に過ごした10ヶ月が蘇ってきた。

 

ありがとう。

 

そのときあふれた涙が、

今までの私の人生の中で一番幸せな涙。

 

 

 

Just As Its Fragrance 見えない美しさ

 

美しさとは、目に見えるものだけではない。通り過ぎても思わず立ち止まって探してしまうあの花の香りのように、本当の美しさとはきっと、醸し出される知性や謙虚さ、エレガンス、思いやり、優しさのこと。

いつか香水を身に纏わなくても、いい香りのする女性になりたいとどこかに書いた記憶があるけれど、きっとその「いい香り」とはそういうことだと今思う。

そしてその想いを、私は生まれてくる娘の名前に託します。

 

Trust 信頼

 

出産の予定日まであと2週間をきって、今このお腹の大きな最後の時間に何か一つでも考えていることを書き残しておけたらなと、そんな思いで今日は近所のイタリアンカフェに来てMacbookを広げています。

やってくるお産の時とは、きっと 信じるということを試される時。自分を信じる、身体を信じる、我が子を信じる、そしてお産を共にしてくれるパートナーを信じる。自らに起こること、感じることすべてに理由があるでしょう、だから完璧にデザインされた身体という自然を信じる。

信じること、信頼、Trust 。それは、然しながら、日々のプラクティスから生まれるものであると、この約10か月を経て強く感じます。他人との約束を守る、言ったことを履行する。そういった他者との関わりの中で築き上げていく信頼以上に、自分の一つ一つの行いに対して、正直にいられるか。誰も知る由も無い、でも自分が決めたことに対して、約束を守れるか。そう、「自分との約束」を守るということの積み重ね=プラクティスが、自分に対する信頼、自分の身体に対する信頼、そして自分の人生に対する信頼となっていくー。

今回の妊娠中には、赤ちゃんのためにいいと言われているこれを食べよう、これをしよう、ということはあまりなかったけれど、自分の中に宿る新しい小さな命に対して、この私の選択した一口一口の食べ物が、一歩一歩が、深い呼吸が、日々の心持ちが、そして生き方が、お腹の中の「いのち」というものを形成していくのだということは、常に忘れませんでした。そしてその「いのち」は、この地球の一部であるのだから、私にはそれを最高の形のパズルの1片として仕上げ、母なる自然という偉大なものの元に還元していく責任がある。

今回、医療介入のない自然なお産を選択しますが、お産やそこに付随すると言われている痛みなどに対する恐れはなく、今とても落ち着いた心持ちでいます。少なくとも、妊娠期間10か月、自分に対す信頼を裏切ってこなかったからだと、今振り返っています。

妊娠期間が終わっても、このプラクティスは続いていきます。食べ物を粗末にしていないか、水を大切にしているか、ゴミ一つのその後を想像する心を持っているか、立つ鳥後を濁さすを実行できているか、あの時頂いた手紙の返事を忘れていないか、わずかなお金でも感謝とともにきちんと返しているか。そういう何でもないように見える日々の行いに意識を持って、積み重ねていく。それは、結果的に他人から得る信頼を作り上げていくものでないかと、そう思います。

あと少しで、やってくるいのち。それを我が胸に両手で受け取った時、私はきっと、また一つの大きな自分との約束をするのでしょう。

 

 

Sat-Nam; I am Truth

 

医療のくびきから解き放たれ、

大いなる自然に依拠すれば

原始的生命力はよみがえり、

お産は深い悦びに満たされて女性は浄化され

真実の母子が誕生する・・・・・・

 

吉村医院・お産の家院長 吉村正

 

 

新しい家族を迎えるその日が、少しずつ近づいてきています。

これまでの8ヶ月は身体的には今までの暮らしとほぼ変わることなく、妊娠中といえど今までと同じように日々の生活がごく自然に続き、お産とは命がけのイベントでありながら、生きる営み、つまり衣食住の隣に自然に存在するものなのだと感じています。

お腹に自分以外の命を宿すとは一体どんなことなのか、以前は想像しようともできなかったその感覚を、今まさにこの瞬間感じています。

愛。という言葉。その意味を、今までよりさらに深く理解し始めたのも、この命を授かってからでしょうか。今このお腹にあるものは、愛そのものでしかない。

だからこそ、夫と二人で自然出産という選択をしました。二人の愛の間に誕生した小さな種だから、私だけでなく二人で一緒に産みたい。

自宅の浴室が2階にあり勝手が悪いので初めての今回自宅出産は諦めましたが、近くにあるbirth centerでのお産。そこでの出産がかなうよう、この妊娠期間は「命をかける」。冒頭に引用した吉村正さんの言葉です。それぐらいの気持ちがないといけないのだと。

毎日の山登り、ヨーガ、ウォーキング、「ちょっとぐらい」と自分を甘やかさない食事のコントロール。何よりも、幸せでいること(幸せ見出し、幸せを感じること。)今月からは夫と共にヒプノ・バーシング(深いリラクゼーションの状態で行う母子に優しい出産メソッド)を学び、より二人の絆を強く育て、いのちを迎える準備をしています。自然出産がかなうように、そのためにはマラソンを走るように、当日までに万全で最大限の努力が必要であるー。自然とは、きっと自然に与えられた身体、精神、知恵、それを生かし切れた時にきっと味方についてくれるのでしょうね。そう思うと、まだ全力を尽くし切れていない自分に気がつきます。

妊娠を機に、長い間していなかったピアノを再開しました。毎日、ヨーガのプラクティスの前に30分ほど鍵盤に触れる時間。終えるたびに、お腹の子が気持ち良いといいなあと、思います。悦びを分かち合う、人間が幸せを感じるその「分かち合い」の感覚は、すでにもう私とお腹の子の間にあるのだと、気がつくのです。

 

夏まで、きっとあっと言う間です。

 

 

 

Beautiful Things to Pass on

 
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近頃は玄関の扉を開けると真っ先に、官能的なブーゲンビリアの色が目に入る。

隣の家の無花果の木の乳白色を思わせる香りが、ダイニングの窓を開けると流れて入ってくる。

ヨーガの度に、自分自身の奏でる呼吸の音の海辺の波を思う。

ピアノを弾いた後に、お腹に手を当てて我が子の様子を感じてみる。

 

ただそこにあるだけで、美しいものを知ってほしい。

 

Still Bright in the Kitchen まだ明るい台所

 

もうすでに夏時間が始まり、日が長くなった。6時ごろ、夕食の支度に取り掛かろうとキッチンに立つとまだ明るく、「ああ、いいなあ」という気持ちになる。夕日の差し込む明るいキッチンでの時間は、どこかとても懐かしい気持ちにさせてくれる。私の作る料理の匂いが、通りの誰かの鼻をくすぐるといいなと思う。

野菜を洗ったお水や、和食の日にはお米のとぎ汁をキッチンガーデンのハーブや野菜たちにかけてやるために裏戸を出ると、まだ暖かい空気が迎えてくれる。この時期は、近所のジャスミンの香りが空気いっぱいに満ちていて、思わず深呼吸する。もう少しこの時間を味わいたくて、沸かしていたお湯のガスを止めて、エプロンのまま裏戸の階段に座り、春という優しい季節を見つめる。

キッチンに戻ると、度々母のことを思い出す。献立の組み立て方、それぞれの料理に使う野菜の切り方。思えば、すべて母の料理を日々食べながら覚えたこと。伝統とは、芸術や文化などの大きなものだけでなく、母から娘が受け取る料理の仕方、心、創意の使い方に息づいている。そういう伝統が、ある意味最も大切だとも思える。なぜならそれが私の生きる力になっているから。

日々料理をすることは、私にとって、母そして家族への感謝の行為である。

春の日に。

 

 

 

To Feel

 
Afternoon in my yoga room at home.

Afternoon in my yoga room at home.

春の始まりに感じる、とても懐かしい気持ち。春そのもの以上に、この始まりの瞬間が記憶に語りかける。

空気に移った太陽の匂い、控えめに季節の到来を告げる白と黄色の花々の芳香、柔らかな光の反射。全てか優しい笑みを浮かべているような、そんなエネルギー。

胸をいっぱいにするこの感覚が、人が持つ一番大切な財産のひとつであると感じられずにはいられません。

毎年書いている気がしますが、この時期に開花を迎えるミモザアカシアの花と、オレンジの花にたくさんの思い出があります。たくさんの人の顔、この花々の香りが綴ってくれたかけがえのない時間が、穏やかに蘇る。

五感を大切にする。感じる心を大切にする。それは豊かな生き方に繋がる。

 

As You Move with Honesty

 

軸をしっかりと心得ながら、規律とバランスと、緊張と弛緩の中で、気持ちが良いと思う方向へ素直に伸びていくこと。

ヨーガの実践の中で気がつくそれは、生き方のこと。

 

今日に感謝。

 

Misha

 

Talisman By Gandhi

 

Whenever you are in doubt, or when the self becomes too much with you, apply the following test. Recall the face of the poorest and the weakest man whom you may have seen, and ask yourself, if the step you contemplate is going to be of any use to him? Will he gain anything by it? Will it restore him to a control over his own life and destiny? In other words, will it lead to Swaraj for the hungry and spiritually starving millions? Then you will find your doubts and your self melting away.

どうしたらいいか迷ったとき、また欲でどうしょうもなくなったとき、次のことをしてみなさい。あなたが見たことのある一番貧しい人、弱い立場の人の顔を思い浮かべてみなさい。そして、自分がしようと思っていることが、その人のためになるかどうか考えてみなさい。あなたがやろうとしていることによって、その人は何か得るものがあるのか、その人は自分の人生と運命を自分の手に取り戻すことができるのか。つまり、あなたのその行為は、お腹を空かし心も満たされていない何百万の人々にスワラジ(自立)をもたらすことにつながるのか、考えてみなさい。そのとき、あなたの迷い、あなたの欲が消え去っていることに気づくはずです。

 

私が、いつもポケットに入れている言葉です。今一度、自分に問いかけたい。

 

A Thing to Question Myself

 

こちらの方が偉いとか優れているという職業や地位など一つもない。

大切なのは、どれだけ私が、生かしてくれる周りとの関わりを意識しながら、毎日を真剣に誠実な態度で生きていますかということ。

 

Truth

 

自分ではなく、目の前の人に対して、

愛という全てを差し出した時に、響き合うリズムがある。

心が震えるという瞬間を知る。

きっとそのとき、世界は本当の姿を見せるよ。

 

School of Kitchen Garden

 
 

今はアパートメントに住んでいるので、わずかなスペースながら、こちらで生活を始めた時からハーブや野菜を育てています。ガラン、と何もなかった裏の駐車場前のスペースに、6メートルほど横並びに鉢を並べた私の「キッチンガーデン」。

ハーブ類は、セージ、バジル、チャイブ、タイム、カモミール、ミント、コリアンダー、ディル、イタリアンパセリ、オレガノ、青紫蘇、赤紫蘇。野菜は、モロヘイヤ、スイスチャード、ハバネロ、果物はマンダリン。エディブルフラワーには、ナスターシウム。種から発芽させて育てた葉っぱたちに対する私の思いは、まるで親のよう(まだ親でもないですが。)

小さなキッチンガーデンですが、それでもここは、この一年私の小さな日々の学校のようです。毎日葉っぱの裏表確認するも、一夜にしてどこからかやってきた食欲旺盛な青虫が、葉っぱにたくさん穴を開けていることもしょっちゅう。始めのうちは、その度にがっかりして、ちょっと虫たちに腹を立ててもいたけれど、いつからか「わかった、そしたらもうちょっと食べてもいいけどさ、そのあとは私たちも食べさせてもらうね」と譲り合うことを学びました。それでも虫に食べられると葉っぱは痛いのでしょう。そのあと言葉と心をかけてあげないと、痛々しいままの姿。そんな時は、もう一度はつらつと大きくなれる可能性を信じてあげる。ケアを続けるとまた生き生きと蘇ります。当たり前のことを、このキッチンガーデンの成長とともに、私は学んでいます。

育った作物を収穫すると、必要なものはそんなに多くないことに気がつきます。大事なことは、量ではないということ。

昨日はセージとタイムをたっぷり使ったバターナッツスクワッシュと白いんげん豆のスープ、そしてバジルで作ったピストゥの夏野菜のクスクスが食卓に上りました。アペリティフに、赤しそジュース。今日はまただいぶ大きくなった収穫どきのスイスチャードでキャセロールを作りたい。食後は、たくさんできつつある乾燥カモミールティーかフレッシュミントティー、その時の気分で。デザートは、先日作ったバジルのアイス。料理とは自分の持つ五感を信じること、その自信を強くしてくれるのは、キッチンガーデンで採れたばかりの、香りに溢れるハーブ。それを知ることで、本物とは何かということを、学ぶのです。

小さなキッチンガーデンがくれるのは日々の学びに始まり、アパートメントの住人とのコミュニケーション、夫とのいつも以上に楽しい食卓、そして明日を生きるための、私のいのち。そのいのちをどう循環させていくか。それは私が明日をどういう意思を持って、世の中に対してどんな創造をさせてもらい、生きるかということでしょう。

まだ7月ですが、腕はもう真っ黒。焦げないように、今朝も庭仕事。

As It Lives In A Nature

 

思わず手に取ってしまう器や花器は、植物の横に自然に存在していられる色をしている。それとは、外から塗ったような色でなく内側から滲みでてくるような色。魅力的な人、とまるで似ている。

お料理をのせるとそこに小宇宙が完成し、花を生けると、器から「あ、花が咲いた、若葉が出てきた」と思えるもの。そんなものが美しい。

物を持たないことが持て囃される今。必要以上には物を持たないでいいと思うけれど、私はやはり物が好きだと感じる。骨董市のような場所も大好きだし、世界の工芸品やヴィンテージスカーフには目がない。「断捨離」という言葉は、(自分や家はスッキリしていいけれど)その捨てた後の物の行方も気にかかるし、少し寂しい響きがする。人はやはり物と共に文化を育み豊かにしてきたから、物が人に与えてくれる力は大きい。個人的には、断捨離するより本当にいいものを選び大切にして、いつか自分の子供や誰かに受け継いでいってもらう方がいいなと思う。

そんな中でも、食器と花器はある程度の数が要る。心を込めて美味しい料理を作って、それで終わり、ではない。その料理の色調、テクスチャ、形、そして素材の季節に見合った器がその心を受け止めてくれる。食材への敬意を示すことを可能にしてくれる。お花も、その花が最も自然に見える、またはその魅力が一層引き出される花器に生けなければ気持ちが悪い。花自身も、自分の美しさが引き立たない花器に生けられた時、あっという間にその魅力を枯らしていくように思える。一つの器や花器だけでは、やはり対応できない。それでも、自然界の色や肌触りに近いものは、多くのものを包容する力がある。

利休の言葉、「花は野にあるように。」その真意に、暮らしの、生き方の、様々な事柄における本当の美しさへの導きがあるように思える。

 

Let Them Pass Thorough

 

Before you speak, let your words pass through three gates. 
At the first gate, ask yourself, ‘Is it true?’
At the second ask, ‘Is it necessary?’
At the third gate ask, ‘Is it kind?

- Sufi Saying

 

言葉を発する前に、それらを3つの門にくぐらせてみる。

最初の門で尋ねる「それは真実ですか」

次の門で自分に尋ねる「それは必要ですか」

最後の門で尋ねる「そこには優しさがありますか」

 

家族にでも、夫にでも、友人にでも、知らないお店の人にでも。メディアを通じた不特定多数の人に向けた発信においてでも。それは借り物ではなく本当に私の言葉だろうか?それは単に我欲を満たすためのものでないだろうか?その一言で一文で、私の知らないところで傷ついたり不快になる人がいないだろうか?排他的でないだろうか?ちゃんとした心がそこにあるだろうか?

ゲートをくぐらせずに出してしまった言葉の行方を後悔し悩むのは、きっと私でしかないから。

言語は関係ない。これからも、全ての言葉を大切に。